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「整った教会音楽」を作ること、それが青年バッハの想い


about Bach

〜 その4 〜

パイプオルガン

「整った教会音楽」を作ること、それが青年バッハの想い

バッハは18歳にしてアルンシュタットの教会オルガニストになりましたが、聖歌隊の指導などでトラブルが絶えませんでした。また、当時としては斬新過ぎる和音や技法で曲を作曲・演奏し、人々の評判はよくありませんでした。

また、ブクステフーデの音楽を聴きたいために休暇をとり無断で3か月も旅先から帰ってこなかったり、恋人を教会で歌わせたりして、聖職会議からひどく叱られました。バッハのストレスはかなり高まっていたようですね。すでにバッハのオルガニストとしての名声は高まっていたこともあり、22歳のころミュールハウゼンというまちの教会オルガニストに転職しました。

このころの代表作として、あの有名な「トッカータとフーガ二短調(BWV565)」があります。この曲はブクステフーデのオルガンの即興的な曲に触れたバッハが、その感動の冷めないうちに一気に書き上げたという感じがします。しかし、単なるブクステフーデの作曲技法の模倣ではなく、バッハ独自の音楽が大胆に繰り広げられています。青年バッハの情熱が嵐のように駆け巡り、今なお聞く者に深い感動を与えてくれる曲です。

また、このころ有名なカンタータ「神のときこそ、いと良きとき(BWV106)」 いています。この曲は、親戚の葬儀のために演奏されたといわれています。前半は、バスの歌手が旧約聖書のことばを用いて「ひとは死すべきもの」と重々しく歌いますが、後半ではソプラノの歌手が「イエスよ、来たれ」と明るく呼びかけ、その恵みによって安らかに眠ることができると歌っています。若干23歳の青年バッハは、すでに死の問題について悟りの境地に達していたと思わせるような曲です。バッハは精神的にずいぶん早熟だったのですね。

しかし、バッハはミュールハウゼンでの仕事に就いて1年ほどで突然辞表を提出しました。理由の一つとしてバッハの上司が礼拝における華麗な音楽を否定する敬虔派に属していたからだと言われています。音楽を尊重するルター正統派の家系と教育を受けていたバッハにとってそれは耐え難いことだったと思われます。

辞表には理由として「整った教会音楽を築き上げたい」ということが書かれていました。バッハは20歳代の前半にすでに「神の意志に従って演奏する」という人生の目的を抱いていたようです。そしてそれを死ぬまでそれを追求し続けたのでした。そのことはバッハが、楽譜の冒頭に”Jesu Juva” (イエスよ、助けたまえ)、 末尾に”Soli Deo Gloria”(神のみに栄光あれ)というサインを書き込んでいることをみればわかります。バッハにとって、作曲し演奏することは神のみこころに従い、神に捧げる行為だったのです。

文責:藤田泰宏

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